着物をまとった「エンジニア」 -ビジネスライター 綾香の視点-

前回は、鹿児島県にある「スーパーAZ」を紹介しました。今回は、神奈川県にある「元湯陣屋」という旅館がどのように再建したかについて書いてみたいと思います。
「スーパーAZ」の牧尾社長が元々エンジニアだったと紹介しましたが、この「陣屋」を引き継いだ宮崎富夫社長も自動車メーカーでエンジニアとして働いていました。そのキャリアから「問題の本質を見る」視点を持っている点で、この2人には共通点があるような気がします。

「元湯陣屋」は神奈川県秦野市の鶴巻温泉を代表する老舗旅館です。戦前から囲碁や将棋のタイトル戦が開催されてきた旅館でもあり、ここで行われた升田幸三八段と木村義雄名人との対戦などは将棋史に残るものです。私は作家の坂口安吾氏が好きで、彼が陣屋を訪れた時の将棋観戦記を読んでいたため、有名旅館であることは知っていました。

そんな名門旅館ですが、4代目の宮崎富夫社長が引き継いだときには多額の負債を抱え、旅館は破産寸前に陥っていました。2009年に宮崎社長の父が他界。女将で社長をしていた母親も病気で倒れるという不幸が立て続けに起こりました。その時、宮崎社長は初めて旅館の経営状態を知ったそうです。単年のPLも大きな赤字で、借入金は10億円以上に膨らんでいました。旅館を手放すことも検討しましたが、買い手は見つかりません。売上規模からすると絶望的な借入金額。このままでは、自宅も旅館も全て失ってしまう……。

当時、宮崎社長は自動車メーカーのホンダで燃料電池の研究開発に従事しており、家業を継ぐことは考えたこともなかったそうです。ですが、1カ月後にはホンダを退職。「陣屋」の4代目を継ぎました。

「10億円の借金は、サラリーマンを続けても返せる額ではありません(笑)。そうした事情もあったのですが、祖父の時代から宮崎家が守ってきた旅館を存続させたいという想いが強かった。それを人に任せたら後悔するなという想いがありました」

設計、実験、そして検証と改善を繰り返してきた一流エンジニアの目に、旅館経営はずさんに映ったと言います。
宮崎社長が何より危機感を覚えたのは、場当たり的な対応ばかりで、根本的な問題解決のアプローチが取られていないことでした。それが長期間続いてきた弊害は、売上や利益の減少だけでなく、「評判」や「信頼」といった目に見えない資産をも食いつぶしていたと言います。

例えば「空室を減らす」という目の前の問題を解決するために、安いプランを打ち出していました。すると客数は維持できても、料理のグレードは下がります。行き渡った接客もできません。「陣屋の質も落ちたな」という悪評判につながりました。目先の「稼働率を上げる」ことが、顧客満足にも会社の利益にもつながっていなかったのです。

「それまでは社長である女将の指示で現場が動いていました。ただし、その他の従業員が自ら能動的に考えたり行動する習慣が全くなかった。長年の経験や蓄積された知識がある女将の頭の中にすぐにアクセスできるようなシステムを作れないかと考えました。」
そこで、考えたのが『陣屋コネクト』というシステムです。

「DX化」による改革

「陣屋コネクト」は顧客情報の収集や勤怠管理やアンケート集計、原価管理や会計処理、売り上げ分析などの機能が一元化され、コスト削減や業務効率化、厳密な損益シミュレーションなども行うことができるものです。

この機能を使って、様々な改善につなげていきました。一例を紹介してみます。システムを導入する前まで、予約の電話を受けた担当者が手書きの台帳に書き込み、それを転記して毎日の予定表を作成していました。その予定表は従業員の人数分コピーして全員に配布し、当日の予約変更があった場合はホワイトボードに書き出す。顧客情報を共有するだけでも、何工程も経なければならず、それでも連絡モレが生じ、客からのクレームが発生していました。

「陣屋コネクト」では各自が所持するデバイスで、リアルタイムで情報を確認、急な変更があっても、その場で変更内容を書き込むだけ。いつ、誰が、何を変更したのかという履歴も残るので、対応者の責任感も向上。連絡モレによるミスがなくなりました。

業務連絡はすべてこの社内SNSに一本化。従業員は出勤したらログインして勤怠ボタンを押し、その日の伝達事項をチェックします。閲覧したかどうかのチェックもできるので、連絡事項だけの会議はすべて撤廃しました。スタッフ全員がこの仕組みに参加することで、「言った」「言わない」「聞いていない」というトラブルもなくなっただけでなく、従業員の手間や業務時間が大幅に減りました。

原価管理も徹底。ニンジン一本、ダイコン一本から原価管理をし、その数字を調理場スタッフが自ら入力しチェック。廃棄などのロスも減った結果、料理の原価率は40%から30%に減少しました。

「お客様の満足を高めるためにはワントゥワンの対応が必要。効率的に運営しなくては利益が出ない。従業員の満足度が高くなければ良いサービスができない。これらをトータルで高めるためのシステムが必要だと考えたのです」 

ホスピタリティも向上

さらに、大きかったのがホスピタリティの向上です。以下が「陣屋」での接客の一場面です。

「〇〇様、お待ちしておりました」。
旅館の専用駐車場に車を停めて約1分後。旅館のエントランスでは、仲居さんたちがお客さまの名前を呼んで出迎えます。まるで、その人が到着したことを事前に把握していたかのような迎え方です。

「〇〇様、以前いらっしゃった際に〇〇の食材が気に入ったとおっしゃっていたので、今日はこのような料理を用意しました」
受付を済ませて部屋に案内するまでの間も、何気ない会話から客のニーズをくみ取り、それを即座に満たすような対応をすることができます。

館内には過去の名人戦の写真などが飾られています。その写真を興味深そうに見ているお客様がいた場合、案内をする仲居さんが「将棋に興味がおありですか?」といった話題を振ってみます。そして、部屋には別のスタッフが先回りして将棋に関する書籍を届ける、といった具合です。

駐車場には車番認証システムが設置され、登録された車が入ってくると顧客情報が発報されます。パートを含めた全従業員がパソコンやタブレットで、客の食事の好みや来店頻度をチェックするだけでなく、急な情報共有や要望にも対応。上記のケースでは、「将棋に興味がある」という情報をすぐに社内SNSに上げ、それを見た他の従業員が対応をしたわけです。

常に開拓者たれ、という教え

この「陣屋コネクト」というシステム。実は、開発者は「陣屋」の宮崎富夫社長本人です。
2009年9月に4代目に就任して様々な問題点を発見して、すぐにシステム開発に着手しまし、2カ月後の12月には現場で活用し始めました。

2010年に運用を開始して2年後にはシステムの外販を始めた。今では全国の旅館やホテルなど、多くののサービス業や団体が導入しています。精度の高さと利用しやすい価格設定はすぐに話題になり「旅館業界の救世主」と呼ぶ人もいるほどです。

当時、人件費や料理の原価、そして顧客情報を一元管理する旅館業界に特化したシステムは大手から販売されていました。しかし「クラウド対応しているか」「自由なカスタマイズは可能か」といった選定基準、そして限られた予算内でという条件を満たすものはなかったそうです。「なければ自分で開発しよう」。理由は至ってシンプルでした。

宮崎社長がホンダ時代に学んだのは「常に開拓者たれ」という精神。暗闇の中で自ら松明を持って先頭に立て。何か問題が起こったら自らの判断と知恵で乗り越えろ。こうした精神を叩きこまれていました。

「私が所属していた基礎研究部門は『コア技術は自分が作れ』という方針を徹底していました。エンジンや燃料電池といった機関技術は他から買うのではなく、自らが開発して進化させろという考えです。ですから、旅館のコアシステムは自分で作るというのは、自分の中では当たり前の発想でした」

急激な改革は反発も招きました。「若い社長がこの旅館をおかしくしている」。そんなことを言い出す社員もいたそうです。IT化についてこれないベテランは「私に辞めろということか」と陣屋を離れていきました。

システムを導入しても使わない従業員もいたため、「一日一件でもいいから投稿しよう」と根気よく呼びかけました。社長や女将が率先してシステムを使い、スタッフが積極的に使う雰囲気を意識的に作りました。

「陣屋でも起こった問題ですし、『陣屋コネクト』を導入する旅館でも同じようなことが起こるのですが、現場の従業員は変わることに難色を示したり、個人レベルでは変革することで一時的に仕事が増えることもあります。そうした従業員の声を聞き入れて経営者が改革をやめるケースがありますが、そんな声を聞いていたら何も変わらない。そんな経営者には必ずこう言います。部分最適ではなく、全体最適を考えてください。それができるのは経営者だけなのです、と」

従業員満足の追求が「永続企業」に

「陣屋コネクト」のデータを基にした改革は他にもありました。「安売りプラン」を打ち出すことを一切止めたことです。稼働率を上げることが利益の増加つながっていないことが明らかになったからです。

都心からのアクセスの良さ、歴史ある日本庭園などの強みを活かし、婚礼需要を取り込んでいきました。式を挙げた旅館は夫婦にとっては思い出の場所。そのうちの何組かは記念日に宿泊してくれるようになりました。値段は高くでも「良い体験をしたい」「良い思い出を作りたい」といった客に向けた「ワントゥワン」の手厚い接客を徹底していきました。

さらに、2014年から月曜日から水曜日までの3日間を休館日にしました。「陣屋」の全従業員が週2日の休みを取れるようにしたのです。この待遇は旅館業界では異例のことだそうです。

「業務の効率化や黒字化には成功したものの、相対的に従業員満足度が上がっていない、という反省がありました。全員が決まった日に休みを取り、営業日はフルメンバーでおもてなしをする。それが結果的にCSにつながりますし、長期的には利益も向上する。そういう意味で、今後も客数を増やすより単価を上げていく方向で考えていきたい」

社長就任当初「立て直せなかったら住む家もなくなる」といった危機感から、寝る間も惜しみ、スピード優先で改革してきた。安定した利益を生み出せるようになったときに「従業員満足」を考える余裕ができてきた。そして、それこそが永続的に利益を残せる組織を作る力の源泉になる、と考えていると言います。

私が宮崎社長にお話を伺ったのは5年ほど前になります。その後のコロナ禍の際は、旅館業界全般が厳しい状況だったと思いますが、宮崎社長の手腕によって安定経営を続けている様子です。私も宿泊客として訪れましたが、本当に良い時間、良質な体験を味わうことができます。皆さんも、「陣屋」を体験してみることをおススメします。